【どうして私が占い師やカウンセラーになったのか】
初めまして。
ドリームセラピスト いのりです。
お陰様で、プロになって10年
心理鑑定セッションは延べ13000人以上になりました。
小さな頃から、母のネグレストや父の酒乱
担任やクラスメイトからのイジメ・不登校・暴力
過食症・病気・鬱・嫁ぎ先での金銭的問題などを抱えてきました。
誰かに助けて欲しかったけれど、周りには助けてくれる様な人はいませんでした。
何度も死んでしまおう。と考えましたが死にきれず
ならば死ぬ気で頑張るしかない!と歯を食いしばって立ち上がり、前を向いた過去が何度もあります。
17歳の時、流行りの占いに出会い自分の宿命を知りました。
どうしてこんなにも自分の生い立ちが大変なのかが解り
とても納得し占いって凄いな〜と実感しました。
その後、22歳で結婚。
夫との関係が、共依存・モラハラ・パワハラな夫婦関係だとは知らず
どんなに辛く苦しくても自分を押し殺し、世で言う良妻賢母が女の幸せと信じ
仕事人間の夫には頼れず、ワンオペで2人の子供の育児・同居・介護など家族の為に尽くしてきました。
人生経験が人より多かったり、占いもできたので
嫁ぎ先の親戚や友人から相談される事が多くなっていきました。
この頃はまだまだ趣味の範囲だったので
お金は貰わず人の相談にも乗っていましたが
段々内容が重くなり占いだけでは限界を感じ
心理学やスピリチュアルを独自で学んでいくと
自分が、アダルトチルドレンだということを知りました。
色々学びを深めていった結果
HSPだったり、身勝手な夫にカサンドラにもなっていたことや
共依存の関係だったんだと自覚しました。
その後、学んだ事を実践していくと自分も周りも変わり始め
変わらなかった夫とは離婚する流れに。
独学で勉強はしたものの、金銭的なことで離婚後の不安もあったので
カウンセリングを受け、内観したら
私はどれだけ家族や人の為だけ考えて、自分を犠牲にしてきたのか。
自分が自分の心を蔑ろにしていたから
私を蔑ろにする人が私の前に現れてた現実にも、やっと気づきました。
もうガマンも頑張る事も辞めて
今度は自分の人生を生きる事を決意し、卒業離婚に至りました。
離婚後は、ずっとやりたかった占い師やメンタルカウンセラーとして活動。
その後も、色々学び
【現実とスピリチュアルが調和する・超覚醒フォーチュンメソッド】を考案。
お陰様で今では、沢山のお客様にも愛され
私の事を理解し大切にしてくれる人達に囲まれながら、自由にイキイキと過ごさせて頂いております。
アダルトチルドレンのガマン癖のせいで、長い時間他人軸の人生だったけれど
2人の子供達には、私と同じ想いを絶対させたくない!
家系の悪い流れを自分の代で終わらせよう!
と必死に頑張って乗り越えて来ました。
だからこそ、昔の私の様に
頑張ってるけど、1人では辛く苦しい。どうすれば良いか解らない。
誰か手を欲しい!と願ってる沢山の人の助けになりたくて、この仕事をしています。
私の占いは、あーなりますよ。こーなりますよ。と、未来を言い当てるものではありません。
人の宿命(生まれた国や場所・親など)は変えられませんが、運命はいくらでも変えられます。
その為にも、ご自身の気質や運気を知って頂いて、人と比べる事なく
自分の想う幸せな人生を歩んでもらう為のツールです。
そして私は、カウンセラーとは
小さなカンテラの様なモノだと思っています。
辛い時はどっちが出口か分からない、真っ暗なトンネルの中に居る様ですよね。
その真っ暗なトンネルの中に居るあなたの足元を照らすカンテラ。
私はあなたのそんな存在になれたら、と思っています。
あなたは1人ではありません。
私があなたのカンテラになるので、一緒に明るい出口に向かいませんか?
そして明るく楽しい未来を創りませんか?
カウンセリングを受け、お悩みを解消する為には
カウンセラーとあなたの相性が大切です。
また、悩みを解決するヒントがここに隠されています。
私のこれまでどのように克服してきたか、興味のある方は
より詳しいプロフィールを是非ご覧下さい。
もう少し詳しいプロフィールはこちら ↓
《愛もお金も無い家庭》
北海道小樽出身
サラリーマンの父
パートを掛け持ちの母
1番上の姉病死
6つ上の長男の兄
4つ上の次女の姉
私は3女の末っ子に生まれました。
父と母は、昔で言う親の勝手で決められた政略結婚だったので、夫婦関係に愛情はない上
生まれつきの聴覚障害があった父は、仕事や対人関係に苦労し
そのストレスをお酒で誤魔化し、給料半分が酒代に。
家庭の事など一切気にしていない人でした。
母は、3人の子供を育てる為に
パートを掛け持ちしながら、そんな父に怒ってばかりでした。
1番上の姉は1歳の時に麻疹にかかり、貧乏だった為すぐ病院にかかれず
行った時には手遅れで、亡くなりました。
兄は頭も良く、活発でしたが
2番目の姉は風邪をこじらし髄膜炎になり軽い知的障害に。
私を妊娠した時、母は頼りにならない父には相談せず、まだ5歳の兄に
お前の弟か妹が出来たんだけど、産もうか堕ろそうか悩んでる。と相談したら
兄ちゃんが面倒見るから産んで!と。
その言葉で母は、私を産む事を決めたそうです。
兄の言葉が無かったら、私は生まれ無かったかも知れません。
《保育園7年生活・自然と身につくガマン癖》
生後間も無く保育園に預けられた私は
母に抱かれたり遊んで貰ったり、愛されて育つと言う事が殆ど無く、とても内向的な子供でした。
いつも眉間に皺を寄せてる母は、保育園のお迎えを忘れる事もしばしば。
まだ幼い子として母親の愛が欲しいと望んでも待ったとしても
貰えない状況を無意識に悟った私は【ガマン癖】【諦め癖】が、自然と身についていきました。
《母の姉への虐待》
4つ上の姉が風邪をこじらし髄膜炎に。
病状は進行して炎症が脳にまでいき、軽いとは言え知的障害になってしまいました。
それまで、自分で出来てた事が出来なくなり
毎朝オネショから始まる1日。
父に不満を溜め、仕事と子育に疲れ
毎日イライラしていた母は、ある日姉に激怒し
アパートの前の電信柱に姉を縛って、外に放置しました。
外で泣き叫ぶ姉に、ご近所の人が可愛そうだから中に入れてあげて!と
電話がかかって来たのを覚えています。
私は、姉が可哀想で母が怒らないように、いつも母の機嫌を取っていました。
《担任からのイジメで小4から登校拒否児童に》
母は仕事と姉の事で手が一杯で、家の中はいつもグチャグチャでした。
朝、学校に着ていく服や靴下が洗濯されて無いことも。
小学3・4年の頃、貧富の差でエコ贔屓をする担任から
見た目の貧しさからイジメにあい、先生が先頭に立ったことで
クラス全体からもイジメを受けて、登校拒否に。
誰にも助けを求められず、1人辛さを抱えて引きこもりになりました。
《父の酒乱・兄からの暴力 苦しみもがいた中学時代》
中学1年のある日
なんとか私を学校に行かせたかった母から相談を受けた兄が
どうして行かないんだ?と私にたずねてくれる事も無く
ただいきなり、学校行け!!!と力で矯正しようと
殴る蹴るの暴行を受けました。
私は泣きながら母に助けを求めましたが
黙って見てるだけで、止めてもくれませんでした。
私は兄のことが大好きだっただけに、とてもショックでしたし
次の日、腫れ上がった自分の顔を見て
初めて自殺を考えました。
生きていても何も楽しい事はなく、辛く苦しいだけでした。
父の酒乱も酷くなる一方で
自分が死ぬか父を殺すかと考えた事も。
かと言って中々死ぬ勇気も無く
その辛さの現実逃避に食べまくりの過食症や
過敏性大腸炎で度々入院したり、寝込むことに。
こうして、とても辛い環境に育ったので
幸せな結婚生活にとても憧れました。
自分は必ず良い奥さんになる!
良いお母さんになる!
そう自分に誓いを立てました。
《占いに出逢い自分の宿命を知る》
高校の時、六星占術や四柱推命が流行りました。
それらの占いで
自分はどうしてこんなにも大変な生い立ちなのかを知りました。
占いには宿命と運命とがあり
運命は自分次第で変えられますが、宿命は変えられません。
私は、六星占術では水星人(ー)で
親との縁が薄く、幼い頃から苦労する
自分の代から、新しく創り上げる初代運です。
四柱推命でも色々当たっていて、面白くてハマっていきました。
でもその時はまだ若く、占いの本当の意味など解りもせず
大殺界や天誅殺などの言葉の響きが怖かったり
年・月・日と細かく出ている運気が気になり
毎日が占いに支配されている感覚が嫌になり、全ての本を捨て一旦占いから離れました。
《好きな人となら幸せな結婚が出来ると思っていたのに、、》
高校卒業後
事務職につき20歳で同い年の夫と知り合い、好きになりました。
無口で面白みは無い人でしたが
働き者でいつも側に居てくれる彼となら安心な家庭が作れて
幸せになれると信じ、22歳で結婚。
でも嫁いだ先は、借金やパチンコ依存の義母や
交友関係が広く家庭より外に目が行っている義父。
ズケズケと言いたい放題の大勢の叔父伯母たち。
問題だらけの家で、とても苦労しました。
《我慢の先は体調不良、そして2度目の占いの世界へ》
ガマン癖の強かった私は
自分の中で誓った良妻賢母の旗を握り締め、頑張りましたが
度重なる色んなストレスで過敏性大腸炎の他
過呼吸発作を起こす様になったり
ヒステリー球と言う喉に玉がある様な違和感が。
耳鼻科で精神安定剤が出たのは、本当にショックでした。
ただ精神科に行っても、対処の薬が出るだけなので
自分で治す事を模索し始めましたが
あまりの不運続きに
もしや!と自分の運気を調べたら、やっぱり悪い時期でした。
前回はまだ学生で大殺界という名前や
本の内容をちゃんと理解していなかったせいで、怖さを感じていましたが
大人になって改めた読んだら
それらの悪い時期をどう過ごせば良いのかなど、詳しく書いてあり
怖がってる場合ではない!と、そこから占いを正しく学び直しました。
《夫はワンマンに。息子から見ると、たまに来るおじさん》
色々ありながらも、24歳で男の子。
29歳で女の子を授かりました。
ただ結婚後、夫は甘やかされて育っていたからか
欲しい物が出来るとすぐ欲しがり
思い通りにならなければ不機嫌な態度を露骨に出し
無言の圧力で自分の思う様に、私を動かそうとしてました。
しょっちゅう、お金の無心に来る親の問題にも向き合ってくれず無視。
仕事人間で朝早く夜遅くまで帰って来ませんし
休みの日はゲームかパチンコへ。
息子が小さい時
夫が仕事に出かける後ろ姿に、また来てね〜!と言う程
息子が起きてる時間に家に居ることは少なかったのです。
ある夜、私の体調が悪く寝て居たら
具合悪いながらも作った夕食に、いちゃもんをつけ悪態。
義理父と同じく、どんどんワンマンになっていきました。
《子供の事を考えると躊躇して離婚ができない》
どんな時も笑顔で強くある様、頑張って来ましたが
子育ても参加せず、1人の時間を好み
問題が起きても一緒に解決してくれようともせず
共感力も無く、何かあると脅しの様に
すぐ「じゃ〜離婚するべ!」と軽く言って逃げる夫に嫌気がさし
ガマンの限界がてきて
私から離婚を申し立てた事がありました。
すると今度はてのひらを返した様に
「俺が悪かった!変わるから離婚しないで欲しい!!」と頼み込まれ
子供の事を考えると自分さえガマンすれば、、と離婚が出来ませんでした。
《どんどん鬼になっていった母を見て育った私》
父は生まれつきの聴覚障害があり、無口な人でしたが
歴史など好きな分野のことはよく喋ってましたし
職場や親戚などへの外面は良い人でした。
でも家庭では自己中で
母とは会話も無くワンマン。
大酒飲みのやりたい放題でした。
そして母はそんな父に不満だらけで
「1番上の姉がお金が無く病院にかかれず亡くなった時も
一緒に悲しんだり慰めて欲しかったのに
死んだのはこいつの寿命だ!と言い放ち
寄り添ってもくれなかった!父さんは本当に冷たい!」
など、私は小さい頃からいつも母の愚痴聞き役でした。
父は、そんな母を無視をするも
お酒に飲まれたらテーブルなどをひっくり返したりの
大暴れする酒乱。
母は無視をされる事で
怒りが倍増し年々父への罵りは酷くなっていきました。
私は、毎日繰り広げられるその光景が
子供の頃嫌で嫌でたまりませんでした。
《不満だけを言ってる母と同じは嫌!!》
私は、そんな親たちを見て
「私の子供には絶対同じ想いはさせない!」と、自分に誓い
どんなに辛くても子供の前では夫と喧嘩はせず
とても明るく元気な私でしたが
でもただのガマンをしてるだけなので
夫や義理親に不平不満がザクザクの私。
ある時その愚痴を母に聞いて貰っていたら
母から「お前は私と同じだね〜」と言われ、愕然としました。
私はどんなに辛くても子供達の前では
喧嘩も見せてこなかったし
夫を立てたり、お仕事を労ったり
母の様に怒って罵る様な事は一切してこなかったし、
家事も文句を言われない様
良妻賢母で頑張って来たのに、母と一緒って。。。
いやいやいや〜!!
母さんと同じなんて絶対嫌!!!
口にはしませんでしたが、内心衝撃が走ってました。
私から見て、母は不幸そのものでした。
そして夫は、私の父と良く似ていました。
《私はアダルトチルドレン》
ただ文句を言ってる母の様にはなりたくなかった私は
離婚が出来ないのなら
文句言って無いで、自分の環境を自分で変えるしかない!!
子供達の為にも、私が幸せにならなければ!!
と、真剣に考え始めました。
その頃、結婚後趣味でしていた占い相談の内容がどんどん重くなり
私のキャパオーバを感じ
心理学を学びたくなり、学校に行く事を考えましたが
育児の他に、母のパーキンソン病が発覚。
介護をする事になり
学校は断念し
独学で5〜600冊程、色んな本を読み学びを深めました。
その中でアダルトチルドレンの本があり
ウチの事だ!私の事だー!と、またもや衝撃が!
自分だけの出来事では無くて
こんな本になる位、世の中には同じ様な思いをした人が
沢山居るんだと、改めて知りました。
《アスペルガー症候群とカサンドラ症候群》
学びを深めると、今度はアスペルガー症候群や
それに伴うカサンドラ症候群の事を知りました。
思ったことは、父と母の事だと。
そして、父に似ている夫と私の事だと思いました。
ここは衝撃というより、納得でした。
母は父に文句は言うものの、離婚はせず共依存の関係。
私から見て、父はアスペルガー症候群そのもので
母も父の浮気発覚や姉が知的障害になる前までは
カサンドラ症候群の傾向が強く
そこまでの鬼ではなかったのです。
夫源病で色々心身症になりながらも
私たち子供3人の為に朝から晩まで働いて
64歳でパーキンソン病を発症。
鬱にもなり、徐々に弱り70歳で他界しました。
今で言う毒親でしたが
父が留守の時の母の笑顔が大好きでしたし
母の人生は、とても大変で可哀想だったと思います。
そして夫は、父程酷くはありませんでしたが
アスペルガーの傾向が強く
私はひたすらガマンで、カサンドラになっていたと自覚。
夫源病で、過呼吸発作やヒステリー球
蕁麻疹になっていたことも理解しました。
《スピリチュアルは私達には外せない世界》
心理を学んで行くに従って
私的には、進みたくなかった
スピリチュアルの世界にもどうしても進む事に。
母方の祖父はどの位の力だったのか分かりませんが
イタコをしていたと聞きました。
その血なのか小さい頃
現実的には見えないけれど見える。
耳で聞こえ無いけれど、聞こえる。
という様な経験があり
その頃、怖くて自分で封じ込めたようですが
人の相談事を聞く様になって、またその力が強まってきたのか
たまに映像が見えたり、未来が分かったり
自殺した親戚のおばさんの葬儀の時に、乗り移られたり
人の気持ちが入って来てしまうということが、ちょくちょくありました。
そもそも何故、スピリチュアルが怖かったかと言うと
幼少期、いつもケンカばかりの親達の負のエネルギーが、家に渦巻いてたので
家の中は低級霊の様な、怖い嫌なエネルギーばかりだったからでした。
なので、見えない世界を怖がってたんですが
色々学んでる中で、スピリチュアルは見えないけど
私達には外せない世界なのだと知りました。
《口に出し続ければ現実になる?》
自分が幸せになる為に
ひたすら色々な事を学んでは実践、学んでは実践して行くと
面白い事に義理親や親戚達など、周りが良い方へ変わり出しました。
まるで真っ黒なオセロが
真っ白に変わったかの様でした。
私の仕事が終わったな〜!
これで落ち着いて暮らせるわ♪と思いましたが
夫だけは変わらず、ワンマンなままだし
都合の悪い事にはダンマリの無視。
ある日些細なことで喧嘩になり
また軽々しく「じゃ〜離婚するべ!」と言われ
いつもの脅しの逃げ口上だとは分かっていましたが
嫁として嫁ぎ先の親や親戚の力にもなったし
子供も大きくなって
もうガマンする理由が無いと判断し
その場で離婚を承諾しました。
夫は、自分が取り返しのつかない事を言ってしまった!
という顔をして、2階に逃げ
後でまた頭を下げて来ましたが
私の意志はもう変わりませんでした。
夫は脅し文句の現実を引き寄せました。
《卒業離婚、占い・カウンセラーの世界へ》
離婚を決意したものの
経済的に夫に依存していた私には不安もあり
独学では解らない事もあるので、プロのカウンセリングを受けに行きました。
そこで改めて内観したら
私はどれだけ家族や人の為だけ考えて
自分を犠牲にしてきたのか。
自分が、自分の心を蔑ろにしていたから
私を蔑ろにする人が、私の前に現れてた現実に
やっと気づきました。
そして占いも自分でも出来ますが、他の方にも占って貰って
この離婚は間違いではないと確信し
離婚への気持ちを固めました。
色んな事があった結婚生活でしたが
最後は揉める事もなく
見えない力に導かれているかの様に
とんとん拍子の円満卒業離婚をしました。
そしてその後
なりたかった占い師と真理カウンセラーになる勉強を、新たにして
プロの世界に。
そんな長い人生経験の中で色々な学びから
占い・心理学・スピリチュアルを織りなし
【現実とスピリチュアルが調和する・超覚醒フォーチュンメソッド】を考案
この超覚醒フォーチュンメソッドを考案した事により
お客様にも大変喜んで頂いておりますし
人生本当に、色んな事がありましたが、全ての経験が財産だと思えます。
今はガマンも無く、人間関係にも恵まれ
私生活も楽しく、豊かで自由に
幸せを感じながら暮らしています。
お客様もどんどん笑顔になって
自信に満ちたエネルギーに変わっていかれる様を見せて頂いて
とても嬉しく、この仕事は天職だな〜と思います。
今これを読んでくれてるあなたが、もし苦しんでいるのでしたら
どうか私の様に、膨大な時間をかけないで
一日も早く豊かで幸せを感じる毎日が過ごせるよう
この超覚醒フォーチュンメソッドをお勧め致します。
長文読んで下さりありがとうございました。
あなたにお目にかかれる日をお待ちしております。
ドリームセラピスト いのり